未来が見えづらい現代、あなたは自分自身の未来をどのように考えていますか?
明るい未来か、否定的な未来、どちらかになる確率は五分五分です。
「心の中の不安をすっきりさせるメソッド」では、未来を否定的ではなく肯定的に考え、不安より満足感を覚えることで、もっと自分を大事にする方法をご紹介していきます。
第11回は、「つい争ってしまう人の心理」の続き、「自分を幸せにするために身につけたい方法」を解説していきます。
目次
自分を幸せにするために身につけたい方法
「どうしてわかってくれないの?」の心理
現在、家庭や職場、恋愛や夫婦問題などで、「相手に認めてもらいたい」一心で争っている「他者中心」の人がとても多いように感じます。
あなたが、「〇〇したい」と望んで、その選択が誰かに迷惑をかけることなく、その責任を自分で負うのだとしたら、自分が自分のためにすることに問題は全くないのです。
しかし、「他者中心」に陥っていると、相手が自分の望むことを認めてくれないと、自分の欲求を満たしてはいけないような気分に襲われてしまいます。
しかも、そうやって「相手に認めてもらおう」とする気持ちが強くなると、自分が何を認めてもらいたいのか、自分でも分からなくなっていきます。
日頃から自分の欲求や感情を抑えたり無視していると、次第に自分の欲求や気持ちに気づかなくなっていくためです。
そうして、自分の欲求や願望を満たせない不満足を抱えながらも、自分が相手に何を具体的に認めてもらいたいのか、よくわからないまま、「相手に認めてもらたい」という気持ちだけが先走ります。
「だから相手に満たして欲しい」
けれど、相手にしてみても、訴えている本人が具体的に何を望んでいるのかが分からないと、満たしてあげようがないでしょう。
もし相手の方にも「自分を分かってほしい」という気持ちがあれば、お互いに不明瞭な要求を満たして欲しいと、要求しあうことになります。
こうやって、双方が「自分のことを分かって欲しい。認めて欲しい」と相手に要求していくと、そのうち、訳もわからず感情的になり、双方ともに自覚がないまま、次第に争うことが「目的」になってしまいます。
居心地のいい環境をつくる
人は誰でも、疲れている時は休むことが必要です。
あなたはしっかり休めていますか?
「この程度で休むと、さぼっているみたいで罪悪感が沸くなあ」
なんて考えていないでしょうか。
また、他の人の目が気になって、
「会社に行ったときに『どうしいて休んだの』と聞かれたらどうしよう…」
「そんなことくらいで休むなんて…と言われたらどうしよう」
と考えていないでしょうか。
周囲に気を配ることはもちろん大切ですが、こんなふうに周囲を気にしてばかりいると、本当に疲れきっている時ですら、頭の中が思考に支配されてしまい、自分の「休みたい」という欲求に気づけなくなってしまいます。
「しなければいけない」意識ばかりで、苦しい生き方をしているうちに、健康を損なってしまったら、会社はそのことに対して報いてくれるでしょうか。
仮に報いが得られたとしても、それは納得できるものでしょうか。
必ずしも納得できるような報いを得られるわけではないでしょう。
「しなければならない」という苦しい「思考」より、「いまは休みたいと感じた自分」を信じてください。
この「しなければならない」意識は、間違った平等意識により、自分だけでなく同様の苦しみを他者にも要求してしまうという弊害があります。
といった具合です。
もし、この言葉が正しいとしたら、苦しい思いをした人は、同じように他者を苦しめていい、ということになってしまいます。
そうやって、お互いに苦しめあう社会は、ツラさばかりが増えて、どんどん生きづらい社会になってしまいますね。
嫌な場所からは「そっと離れる」のがコツ
これまで、「他者中心」になり、「思考」で自分の自由を縛って、生きづらくなっている人は、これからは何よりも自分の「感情」を優先してください。
相手が正論を説いてきたとしても、聞いているあなたが「不快」であれば、その「不快」と感じる気持ちを信じて欲しいのです。
例えば、上司や親が何か注意する時、あなたをいつも怒鳴るとします。
あなたはそれを「怖い」と感じています。
この時、相手の話の内容は正論かもしれませんが、その言葉の内容に惑わされないでください。
「怒鳴る」というのは、声による感情の攻撃で殴られているのと同じで、言葉によってはその内容もまた精神的な攻撃といえるのです。
内容が正論ならば殴られてもという理由はどこにもありません。
もし、不当な扱いをされたら、
「私はここにいるとツラくなります」
「なので、これ以上、あなたと一緒にいたくありません」
と、自分の感情を優先して、その場から立ち去るべきなのです。
あなたは、傷つけられていい存在ではないし、不当な扱いには抗弁する権利と自由があります。
また、言葉の暴力を含むあらゆる暴力から、身を守る権利と自由があるのです。
そして、これらの権利は、全ての人に認められているべきものなのです。